お仕置きファイル



序文 春への書簡 遠い春 校庭に吹く風 闇の重さ 旅立ち 熊野の熱い夏
 

  密林に雨は止まない

 95年10月、私は成田空港にいた。これからバンコクに向けて旅立つ。いや、正確に言えば、逃走する。
 ちょうど5カ月前、首都の地下鉄にサリンを撒いた罪で、私は殺人罪及び殺人未遂で特別手配された。教団の厚生省に所属していて、化学兵器の製造工程の記録や原料調達に関わっていたためだ。
 私は教団の名古屋支部に逃走支援を求めた。もう資金は底をついていて、捕まるのは時間の問題だと思った。教団ナンバー2も詐欺罪で逮捕され、組織に激震が走っていた時期でもあった。
 ところが名古屋支部から私に送られてきた指示は、驚くべきものだった。国外逃亡を支援する、成田へ向かえ、と。逃亡先はタイ。そこではすでに、私をはじめ特別手配犯の受け入れ準備が進められているという。私の逃亡劇を支援すべく差し向けられた、日本語のしゃべれる2人の若いタイ人女性と都内で合流する。それは驚くべきプランだった。
 ベビーシッターの職を求めて来日したもののブローカーに騙されてパスポートを取り上げられ、売春を強要され続けている不法就労者のタイ人として、私はタイ王国領事に助けを求めたのである。しかもこの女性領事の兄はタイの入管に勤務していて、裏社会とも繋がりがあるのだという(正確には2番目の兄が麻薬のボス、3番目の兄が入管勤務)。領事自身にも、当然賄賂が渡されているはずである。
 私はタイ語が喋れない。そこで、交通事故で言葉を失ったことになっていた。2人のタイ人は私の友人、実態はサポート役としてタイまで同行するという。周到に練られた逃走計画が、すでに出来上がっていたのである。
 タイ人の若い女性のパスポートは、簡単に闇で手に入る。人身売買ブローカーの手によって入国した彼女達のパスポートは、逃げられないように店側が取り上げる。その一部が売りに出されるのである。
 闇で手に入れたパスポートは、彼女達の手元にあった。だが、写真を貼り替えてそれを直接使うような危ないマネはしない。パスポート紛失を理由に、領事に一時帰国証明を書いてもらう。なぜそうするかというと、これによってバンコク国際空港入管の取り扱い方が変わってくるからだ。現実には不法滞在でも、強制退去ではなく、領事の一時帰国証明を携えての帰国という方法を採ったのだ。
 タイ国際航空バンコク行き。10月13日のことだった。同日、3人の名古屋支部出家信者が、エジプト航空でやはりバンコクに向かった。

 6時間後、バンコクに到着した。機外には、軍服姿の下士官が待ち受けていた。私は帰国証明を見せ、エスコート役の女性に言われていた通りに、機内で買ったタバコとウイスキーを手渡した。2人のエスコート役の後をついていくと、空港地下の駐車場に出た。そこには1台のベンツと、若い女性が待っていた。
 幹線道路を少し走り、ガードマンのいるゲートを潜る。スポーツカーの止めてある駐車場に出る。そこで車を降りると、プール付きの豪邸が目に飛び込んできた。
 豪邸の主は、日本で数年間売春と薬の運び屋をやり、数年前に帰国していた。彼女の兄が、入管で便宜を図った職員だった。

 翌日、私はドン・ムアン空港からタイ北部のチェンライへと向かった。その一帯にはすでに、教団名古屋支部の信徒たちが小さなコミュニティーをつくりつつあった。教団からの指示は、そこで他の2人の特別手配犯を待て、だった。
 他の2人はまず石垣島に渡り、台湾人の漁船を使って台湾に逃れた。台湾の基驍ゥら竹連幇(外省人系の台湾マフィア)の力を借りて出港し、さらに蛇頭の協力を得て福建沖で中国の貨物船に乗り換えてタイに向かうらしい。
 教団と台湾には繋がりがあった。表向きには、台北市内にパソコン部品を取り扱う会社を設立していた。また、教団が製造した覚醒剤を販売してほしいと、台湾マフィアに依頼してもいた。この時は、純度が低いと断られ、代わりに密造法を彼らから教わることになった。
 台湾マフィアと繋がりのある集落が、タイ北部には点在していた。時は国共内戦時までさかのぼる。毛沢東に追われた国民党軍残党は、一部がタイ、ミャンマーの山岳地帯に逃れた。彼らは麻薬ビジネスを押さえることで多量の武器・弾薬を調達し、ゲリラ化したのである。その後、タイの山岳ゲリラについては武装解除が進んだが、外省人系の台湾マフィアの幹部がいまだに訪ねてくるらしい。要するに、ゴールデン・トライアングルの薬物の商談場所なのである。
 そんな山岳の町の一つ、メーサロンに当面のアジトを確保した。メーサロンは特に旧国民党軍の子孫が多く定住した町だった。

 世間でいわれているオウムの犯罪には、いくつかの嘘がある。第7サティアンの巨大レプリカの裏側、あれはサリンではなく、覚醒剤の製造工場だった。地下鉄に撒かれたサリンも、本当に厚生省の実験棟でつくられたものか、ロシアから持ち出されたものか、また2種類のサリンが使われたとか、タブンの症状のほうが似ているとか、私たちにもわからないことが多い。
 教団が急拡大する中で、大勢の入会者を受け入れ、地下鉄サリン事件と前後してまた大勢の脱会者を出した。その多くが、建設省大臣の息のかかったHグループだった。彼らの多くが総連系の企業や暴力団の舎弟企業、富士宮の宗教団体などに身を寄せていった。
 当時の私はただ、「マハームドラー」の教えに従っていただけだ。「マハームドラー」とは、自身に負荷をかけて自己の浄化を図る修行法である。例えば他人に傷つけられたときでも、その痛み・苦しみの原因は、自己の無知・悪業にあると考える。たとえ自分にとって理不尽な試練でも、それに悩み耐え抜くことで新たな心の地平が見えてくるという教えだった。

 96年2月、深刻な事態が起こった。じつは、私たちの逃走劇のシナリオを書いたのは、教団名古屋支部ではない。名古屋支部と繋がりのあった元総会屋Nである。Nの手引きで台湾ルートで脱出した2人の特別手配犯とは、すでに合流を終えていた。
 そのNが、出入国管理法違反容疑でタイ警察に身柄を確保された。Nは2人のタイ在住信者を人質に見立てた偽装誘拐事件を企てていた。警視庁捜査4課は、これに絡んだ損害保険会社への恐喝未遂容疑でNの行方を追っていたのだった。
 Nに万一のことが起こった場合、私たちはすぐに北の国境地帯へと逃げる手はずになっていた。Nからは、朝7時と夜の7時、1日に2回、私の携帯電話に着信が来ることになっている。その日、Nからの電話はなかった。それは、緊急事態発生の合図だった。
 私は他の逃走犯2人に連絡を入れ、目立たないようそれぞれ単独で国境の無政府地帯を目指すことになった。タイ、ミャンマー、ラオスにまたがるゴールデン・トライアングル。そこにはいくつかの少数民族の拠点がある。私が向かったのは、竹連幇と取引関係のある麻薬王、ワ族のウェイ・シューカン率いるワ州連合軍が支配するエリアだった。ウェイは麻薬取引による潤沢な資金で中国人民解放軍などから大量の兵器を調達し、タイ・ミャンマー政府もうかつに手を出せない。そこに逃げ延びることができれば、もうそこは要塞同然なのだった。
 私たちはそこで「麻薬王」の庇護を受けながら、覚醒剤や合成麻薬をいくつかのルートで東アジアに流す。教団での薬物製造過程や原材料の調達記録を提供して、薬物の純度向上に役立てていくのは私の役目だった。

 私はNに紹介されていた協力者に連れられ、国境の町メーサイでアカ族の女性と会った。このアカ族の女性が、麻薬取引の有力者と段取りをつけるらしい。まず私が潜入し、他の2人を別々のルートで手引きする。それまで2人は、メーサロンのアジトなどで待機することになった。
 ゴールデン・トライアングルは横長の領域だ。例えばミャンマー・シャン州からはラオス経由でカンボジアに抜けられる。カンボジアは北朝鮮と国交があり、プノンペンなどには商談に使える北朝鮮レストランがある。ワ族のIDカードを利用して、教団の北朝鮮コネクションを取引に生かす。さらに、ミャンマーの偽造パスポートもウェイに入手してもらう。
 後日、私は中国の公民権も取得した。雲南省で漢族とワ族の間に生まれた黒戸籍(無国籍者)になりすまし、住所登録の手続きを行った。これで私は、世界中どこへでも飛んでいける。もちろん、日本へも。

 私はワ族の青年と結婚した。実家はホテル経営だ。このあたりでホテル経営といえば、麻薬王の息がかかっていることを意味する。
 09年、情勢は急速に流動化しつつあった。
 タイ政府は麻薬取り締まりを強化し、ミャンマー政府も武力鎮圧に本腰を入れ始めた。ある漢民族系の部族は部族ごと雲南省に逃れた。中国との関係を重視するミャンマー軍には、手の出せないエリアだった。ひとたび戦闘に巻き込まれれば、私たち麻薬犯には容赦なく銃弾の雨が降り注ぐ。日本での控訴時効は停止したままだ。
 3人の心もバラバラになっていた。北朝鮮に行きたいと言い出したり、2人とももうここを出たいのだろう。私はこの地にとどまることを選択してしまった。教団の走る広告塔から、ワ族の女になったのだ。北朝鮮だって、明日は何が起こるかはわからない。私たちの居場所は足元から崩れつつあった。

 10年、今年もモンスーンの季節が始まった。夏が終わるまでは、内陸部でも雨の季節が続く。私は、ワ州連合軍から軍事教練を受けていた。密林の中でのゲリラ戦を想定して。
 つかの間の休息。私はあるサマナとの短い共同生活のことを思い出していた。
「家のなかの犬は、鎖につながれると自由だ」
 彼が好きだった歌の一節だ。鎖は、自己の存在位置を確認する絶対的な尺度として必要だ。その確認のためだけに。だが俺は、鎖をひっぱられるのは嫌だ。鎖は長いほど、緩やかなほどよい。そんなことを言っていた彼は、やがて教団を脱会した。
 この15年間で私の学んできたことは、銃の扱い、より純度の高い薬物の作り方、商談の進め方、生きていくために必要なミャンマー語とワ族の言葉……。ひどく疲れていた。気を抜いたら、深い眠りに落ちてしまいそう。気を抜いたら、私一人を残して、ワ族の若者たちはみんなどこかへ消えてしまいそう。私、何落ち込んでいるんだろう。
 今日も密林に、雨は止まない。

参考文献 「王国への追跡」(吾妻博勝、晋遊社)







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