お仕置きファイル



序文 春への書簡 遠い春 校庭に吹く風 闇の重さ 旅立ち 熊野の熱い夏
 

  アジアの闇を追え!

 5月のある夜、前代未聞の凶悪事件が発生した。大阪ミナミのステーキ店で閉店間際、店長と店員が共謀して女性客を縛り上げ、郊外のガレージに拉致、金品を奪いレイプして女性を縛ったまま車内に放置した。その後女性は解放され、2人の犯人は店に戻り何食わぬ顔で翌日の営業を続けていたところを逮捕された。俺はこの事件の一報を、大阪Y新聞社の社内で聞くことになった。
「おい、福本、親父さんのコメントとってきてくれねえか?」
 土田デスクが言った。
「わかりました」
 俺が現地に着くともう他社の記者が来ている。俺はインタホン越しに被害者の父親に呼びかけた。
「ところで警察からの一報がお宅に届いたのはいつですか?」
「それが、まだ警察からは何の連絡もないんですよ。いまあなた方が来られて、事件のことをいま聞かされてただただ驚いているんです」
 父親は明らかに狼狽している。それにしても、警察からの通報がないとはどういうことなんだ? 俺はずっとそのことを考えながら社に戻った。

「デスク、行ってきましたよ。警察からはまだ何の連絡もないそうです」
「連絡がねえ? どういうことなんだ、そりゃ」
 そこに大阪社会部の先輩記者、水谷さんが割り込んできた。
「デスク、俺の経験ですけどね、府警はときどきこういうことやりますよ。事件にしたくないんじゃないですか? 被害者に事件が明るみになったときのデメリットをですねえ、ネチネチと言うんですよ。で、告訴を取り下げさせる」
「ミズさん、それおかしいですよ。それは普通のレイプ事件でしょ? これ、輪姦ですよ。いまの刑法じゃ告訴不要で即犯罪じゃないですか」
「だからだよ、事件にしたくなかった。はっきりいやもみ消したかったんじゃねえか? で被害者を説得してる間に俺たちが先回りして事件にしちゃった」
 するとデスクが言った。
「一報はどこから入ったんだ?」
「捜査員のリークです」
 俺は言った。
「公式発表じゃないんだな。じゃその捜査員は内部の方針に逆らってリークした可能性があるな」
「内部告発ですか?」
「わからん、でもともかく重大事件だ。しっかりやろう」

 俺と水谷さんは事件現場のさわやかランチ心斎橋店の前に来ていた。
「ミズさん、この店の作り、おかしかないですか?」
「俺もなんか違和感があるんだよ」
「このチェーン店の客単価じゃ回転率上げないとペイしないでしょ。普通は間口を広く奥行きを浅く、客の動線を短くして開口部も広くとって入りやすくしますよ。この店、細長いL字型ですよ」
「確かに福の言う通りなんだが」
「これだと店の奥に誘導された客は外から見えない。それに前の動線塞がれたら逃げ道なくなりますよ」
「おい、じゃ何か? 客がわざと逃げにくいような店の作りにして、その上でこの事件を起こしたと、お前はそう言いたいわけだな」
「いや、そこまでは言ってませんよ」
「ともかくこっから近い距離のチェーン店がいくつかあったな。手分けして回ってみようぜ」
「わかりました」

 ここから事件は異例ずくめの展開を見せていくことになる。まず報道協定が結ばれた。共犯者のいる可能性があり、その共犯者が別の女性を監禁している可能性があるという一見もっともらしい理由がつけられた。しかし、警察の動きは鈍い。
「それにしてもデスク、この報道協定いつまで続くんですか? あんまり長引くと報道のタイミング逸してしまいますよ」
 デスクは考え込んでいる。
「よし、あと3日待とう。それで進展がないなら、俺たちで第一報を打とう。上には俺から話す。こんな凶悪事件のもみ消しに加担したらもう終わりだ。大阪Yの意地をみせてやろう」
 もともと大阪Y社は東京Y社に対して独立志向が強く、特に社会部は過去の報道でもそれなりの実績をあげていて、みなプライドが高かった。

 俺たちは意を決して第一報を打った。列島を凶悪事件のニュースが駆け巡った。だが、俺たちはこれで記者クラブにも出入りできなくなり、警察からの情報提供は絶望的になった。社内には異様な高揚感が漂っていた。他社はどうでてくるだろうか? 
「デスク、アサヒ、まいにち、ニッケイはスルーです。ただサンケイがベタ記事で取り上げましたよ。余罪、共犯者の可能性あり。踏み込みましたね、サンケイ」
 普通新聞は抑制気味の報道をする。可能性に触れるということは、ほぼ間違いなくそれについての続報を打ってくる。
「テレビはどうだ?」
「NHK夜7時のニュース、スルーです。報ステ、スルー、ニュース23もスルーです」
「民放はデンソーが縛りをかけてるからな。報ステのスポンサーなんてほとんどデンソーが付けただろ」
 デンソーは広告業界のガリバー企業だ。外食産業への悪影響を懸念する日本フードサービス協会やさわやかランチの大株主のI商事などがデンソーを通して圧力をかけてくることは容易に想像できた。
 その翌日、変な事件が起こった。元暴力団員が家族を人質に立てこもり、現場に向かった警官一人が狙撃された。その警官は現場付近で俯せに倒れたままで、救出することもできない、その映像が報道番組で延々と流れている。水谷さんが言う。
「しかし、このタイミングで何でこんな事件が起こるんだろうな。さわやかランチ事件が吹っ飛んじまったじゃねえか」
「テレビジャック狙ったんですかねえ、マジで」
「どこの組だ?」
「雑貨屋です」
 雑貨屋とは隠語で、山岸組6代目組長が率いる名古屋の博道会のことだ。なぜ雑貨屋と言うかというと、下部組織に強制的に雑貨を買わせ、その見返りとして上納金を吸い上げていたからである。
「雑貨屋とデンソーの連係プレーっすか? 怖えなー」
 ここでマル暴の勢力図について少し触れておく。いまのマル暴は、空港利権を握る者が実権を握ると言っても過言ではない。空港には不動産、建設、土木、食品、人材派遣、さまざまな利権が絡みその規模も大きい。かつてその利権を巡って抗争事件も起きている。かんくう利権である。最初にその利権を手にしたのはたくみ組だった。ところがそれを妬まれて組長が射殺され、陰謀を仕組んだ側といわれる山けん組が山岸組のトップに躍り出た。
 これを真似たのが雑貨屋だった。雑貨屋は盟友関係にある大阪の極真会と結んで名古屋セントレア空港利権を独占した。これにより山けん組を追い落とし、山岸組ナンバーワンの地位を奪ったのである。このとき、民間企業で空港利権に与った者がいる。世界的な地元自動車企業Tとデンソー社で、雑貨屋とデンソーはここで繋がりを持ったといわれている。

 数日後、またおかしなことが起こった。店の関係者らしき人物が犯行現場の店の看板を取り外し、解体作業を始めたのである。
「おい、どうなってんだ、福。あいつら店の解体始めたぞ。警察は黙って見過ごすのか?」
 するとデスクが出てきた。
「解体っていっても入り口の方だけじゃないのか? まさか犯行現場は保存してあると思うんだが」
「でもミズさんの言うように警察は信用できませんよ。それに犯人は店の奥で被害者に睡眠薬飲ませてますよね。食品衛生法絡みで保健所とかも動きそうなもんじゃないですか?」

 事件はほどなく次の段階に移行した。事件の重大性に比して極端に少ない報道。ここからネットの熱狂が始まったのである。ヤフーファイナンスの投稿数は連日ダントツの1位、誰も株のことを書く者はいない。2ちゃんねる、ミクシィも凄まじい状況になった。そこにはいまだ公式会見すら開かない警察、報道しないマスコミへの怒りが沸騰していた。
 俺がパソコンをいじっていたらやがてデスクがやって来て、ネットの投稿を読み始めた。
「デスク、俺たちマスゴミって言われちゃってますよ」
「しょうがねえだろ、あいつらの方が正論なんだから。ともかく特集は組むぞ」
「まず何から調べますか? 俺、役員当たってみますよ」
「水谷が言ってたんだが、当日の夜、不審なワンボックスカーの目撃証言が挙がってるんだ。あと事件現場付近のビデオ屋を警察が必死になって聞き回ってたようだな」
「ビデオ屋ですか?」
「たぶん被害者をレイプしたところを撮影して、裏で流したんだろ」
「こりゃあ、プロくさいなあ。金にできるものは何でも金にする、そういう奴らですね。すると撮影部隊は共犯者ですかね?」
「調べることは山ほどあるぞ」

「デスク、被害者の監禁されてたガレージ行ってきましたよ。道は狭いし向かい側は田んぼ、なんであんな場所に借りてたんでしょうねえ」
「借りてたのは店員の三橋の方だろ? 一昨年の秋からか。北川より先に借りてるんだよなあ」
「隣には町工場が入ってます。機密性も高くない。あそこじゃ長期の監禁は無理ですね」
「やっぱり別働隊がお迎えに行く予定だったんだろうな。となるとわずかな時間だな。被害者は運がよかったと言えるかもしれんな」
「あ、もう一つ、事件を起こした帰り際に三橋は滞納してた半年分のガレージ代をまとめて支払ったそうです」
「そりゃおかしいじゃねえか。何かまとまった金が入りやがったな。おい福、そのあたりに何かなかったか?」
「団地がありましたよ。一応見てきましたけどね」
「その団地、気になるな」
「共犯者ですか?」

 週刊誌も事件を取り上げるところが出始めた。しかし、ここでも対応は割れた。取り上げたのは週朝、ぶんしゅん、朝ゲイ、実話のみ。ゲンダイ、しんちょう、ポストはスルーだ。
「しんちょう、スルーかよ。こりゃ根が深そうだ」
「真っ先に書きそうなもんっすよね」
「おい、ぶんしゅん結構踏み込んだな。被害者のいたガレージから複数の通帳、クレジットカード、保険証、ジーパン、下着を押収って、おいおい、警察はどこ持ってったんだよ」
「週朝も余罪、共犯者の可能性触れてますね」
「あそこは本紙とは独立路線だからな。実話もすげえな。犯行車両のワンボックスカー改造して後部座席にベッド作り付けってどこからネタ拾ってきたんだ?」
「でもワンボックスカーは目撃証言もあるし可能性高くないですか? そこで被害者をレイプするシーンを撮影して共犯者がそのままビデオ屋に持ち込んだんじゃないかな?」
 俺と水谷さんは酒を飲みながらいろんな週刊誌を広げていた。その中で二人が一番気になったのが朝ゲイだった。朝ゲイの記事は細かかった。まず店のシャッターを下ろすのを合図に二人がかりで女性に襲いかかる。北川は顔をひっかかれながらも二人で女性をぐるぐる巻きに縛り上げ、車で拉致、その後共犯者が待機していたワンボックスカーに乗り換えて三橋のガレージに向かう。レイプは共犯者も含め車内で代わる代わる行われ、ガレージに着いた後は女性を車内に緊縛したまま放置。その後、被害者が自力で車のロックを外して車外に脱出、ガレージを縛られたままの両足で叩くなどしながら大声をあげ近所の人が気づいたというものだった。俺と水谷さんが気になったのは、ワンボックスカーに乗り換えたという記述だった。
「おい福、これ、俺たちの拾った目撃証言と一致するな。とりあえず北川のフィットだかで店を出て」
「そうですね、車内でレイプするならフィットなんて無理ですよ」
「あとよ、俺が気になるのは被害者の発見されたときの状況なんだが」
「自力で脱出なんてできますかね? 8時間くらい手首も緊縛されてたことになりますよ。指先の感覚なくなるでしょ。しかも薬飲まされて、真っ暗闇で後ろ手でロックはずして車外に出れますか? それに被害者は声も出してるけど、普通口は塞ぐでしょ」
「ネットで初めの頃、トラックの運ちゃんが第一発見者ってなってたよな。案外そうなのかもしれねえぞ」
「でもその後、その話どこかに行っちゃいましたよ」
「俺が言いたいのはだ」
 そのとき、デスクがやってきた。
「お、盛り上がってるな」
「被害者が発見された時の状況を、いまミズさんといろいろ考えてたんっすよ」
「見つけたのは、公安警察じゃねえかな」
 水谷さんがぽつりと言った。
「公安? もしそうなら発見者の情報出せませんよね。じゃトラックの運ちゃんはダミーですか?」
 するとデスクが言う。
「被害者が監禁されてたのは泉佐野か? 岸和田から岬公園にかけては北の工作船の着岸ポイントだぞ。去年の秋から公安は北のアジト必死に探し回ってたからな」
「公安が北のアジト探してたら、たまたまガレージの車の中に縛られて眠らされてる被害者を発見した。これでどうだ? 福」
「いや名推理ですけど、もしそうならこの被害者はよほど運がよかったことになりますね」
「万に一つだな。ってことは、その前に運の悪かった被害者が大勢いて不思議じゃないな。いや、いたと、そう考えた方が自然か」
 デスクはそう言った。

 俺たちはもう余罪と共犯者の存在を確信していた。するとさわやかランチの閉店間際に食事の時間帯が重なり、捜索願の出されている女性の存在が出てきた。水商売の子だった。 
 俺たちは北川が以前店長を務めていた尼崎まで範囲を広げることにした。するとさらにいろんなことがわかってきた。やはり水商売の子の捜索願が数人出ている。そしてこの尼崎時代に、北川は悪い仲間とのネットワークをつくりあげていた。おそらく実行犯が北川と三橋、その背後に受け取り部隊がいて、流れ作業のようにして何らかの形で被害者を処分していたのではないか? こんなことは考えたくなかったが、不可解なことが多すぎる。そしてこの受け取り部隊には北川達よりも遙かに大物のバックがついている。でなければこんなに必死に共犯者を守るはずがない。
「何ですか? デスク」
 その日、俺はデスクに呼ばれた。
「北川には借金があったようだな。どうやって開業資金を捻出したんだ?」
「デスク、北川のはフランチャイジーじゃない、委託なんですよ」
「どう違うんだ?」
「委託はイニシャルコストがかからない。本部持ちなんです」
「そりゃ北川には都合いいだろうが、本部にメリットはあるのか?」
「だから内規があるんですよ。2年間は直営店で勤務して、その成績が優秀で」
「北川がそんな優秀だったのか?」
「なわけないでしょ。評判が悪い上に勤務期間も内規を満たしてません」
「じゃ、なぜだ?」
「北川を強力に推薦した人間がいるようです。まだ確証はないんですが。じつはその人物が、この委託というスキームの推進者なんです」
「誰だ? その怪しげな野郎は」
「社長の息子ですよ!」

 もうさわやかランチ社内も混乱しているようだった。IRによると、事件の3日後に浅野常務が大阪府警に呼ばれ、社長が事件を知ったのが4日後となっている。しかし、こんなことはあり得ないと水谷さんがイチャモンをつけた。
「二人は翌日に逮捕されてんだぞ。店が閉まれば物流が止まる。納入業者からすぐクレームがくる。本部に上がってこなきゃいけない売上報告も滞る。警察に呼ばれて気づきましただと? そんな危機管理あるかよ」
「ミズさん、4日後じゃなきゃ具合が悪いんです。だってここの社長、3日後にJFAの理事に就任したんですよ。事件を知ってて就任したんじゃ具合が悪いでしょ」
「そういうことかよ」
「そういやある地方紙は、事件の翌日に即刻北川との委託契約を解除したって書いてましたね」
「事件を知らないのに委託契約を解除したってか? もう何でもありだな」

「福、今度は何のお勉強だ?」
 水谷さんがそっと背後から近づいてきて俺の肩を強くもみながら言った。
「ミズさん、俺のことバカにしてるっしょ」
「いやあ、そんなこたあねえよ。お前は最初から大がかりな組織犯罪説だったな」
「じつは事件の後に急に理由もなく店を畳んだチェーン店がいくつかあるんっすけど、ある場所に集中してるんですよ」
「どこだ?」
「東京と福岡です。東京が下北沢、千歳烏山、亀戸、亀戸は夜逃げみたいな感じですけど。あと福岡」
「福岡? 何区だ?」
「早良区と中央区です」
「早良区か。博多湾に面したとこじゃないか。北の覚醒剤もほとんど福岡から入ってくるんだよな」
「ミズさん、他に被害者がいると仮定して、どこに連れてかれたと思います?」
「生きたまま海外だろうな。でなきゃこんなに必死に隠すはずがない」
「やっぱり北絡みですかね?」
「工作員が上陸するのと逆だと考えればいいんじゃないか? ボートで沖合に出て、そこで工作船に積み替える。大阪は難しいから警備の緩くなる兵庫か、いっそのこと山口、福岡」
「積み替える。女性は積荷ですか」
 その後、俺は役員の経歴を一人一人調べていた。すると、なんとも気になる人物が浮上した。最初に大阪府警から事情を聞かれた浅野常務である。浅野常務は最年少の役員で社長の信頼も厚かった。しかし、調べてみるとすぐおかしなことが見つかった。ダイヤモンドの職員録で検索にかけても、出身地と出身校がヒットしないのだ。そしてプロフィールを見ると、30代前半までの経歴が不明なのである。30代半ばで韓国系の外食企業に3年間勤め、無名の会社に1年在籍したのちさわやかランチに入社し、以降はとんとん拍子の出世だ。俺はこの無名の会社がとても気になり、デスクに話して東京に行かせてもらうことにした。すでに廃業したこの会社は神楽坂にあった。
「デスク、行ってきましたよ」
「お、どうだった?」
「会社の痕跡はありません。ただ近所の人に浅野常務の話をすると、ほとんど見かけたことがないと」
「そんな大昔の話でもねえよな」
「で俺、一応会社の閉鎖登記謄本取ってきたんっすけど、その定款にですね」
「定款がどうした?」
「気になったのは事業内容です。えーっと、通信機器の販売・輸出、海産物の輸入・卸等々あってですね、こんなのがあるんですよ。マツタケの輸入・販売」
「マツタケの輸入? だったらお前、お相手はあの国しかねえんじゃねえのか?」

 北川と三橋の拘置期限が来た。さすがに検察も不起訴にはしなかった。求刑は北川懲役10年、三橋も同10年だった。
「北川10年、三橋も10年。ミズさん、検察なめてますね」
「北川に法廷で開き直られるのがよっぽど怖いんだな」
 俺たちの言いたかったことはこうだ。検察の作文によると、事件の立案から指揮まですべてを北川が主導、三橋はパシリにすぎない。なのに同じ量刑を求刑したのである。おそらく北川は事件の背後関係をかなりの部分知っている。その北川を黙らせなければ、いままでの隠蔽工作がすべて無駄になってしまう。服役中の女房と生まれてくる子供の面倒、出所後のことまであらゆる配慮で丸め込んだのだろう。二人に同じ10年を求刑したのは、北川に配慮した検察ギリギリの苦肉の策としか俺たちには思えなかった。
「福、どうせシャンシャン裁判だろうが、お前傍聴してこいよ。いけば何かわかるかもしれん。抽選ならどんな奴が並ぶか、駐車場で車のナンバーをメモったり写真撮ってる怪しい奴もいるかもしれん」
 やばい事件の裁判になると、労務者風の男達が抽選にゾロゾロと並ぶことがある。彼らは雇われているのだ。そうやって一般人が傍聴の抽選に当たる確率を少しでも引き下げようとするのである。
「デスク、行ってきましたよ。彼女、法廷に出てきました。カーテンで仕切ってましたが、手首の傷、傍聴席からもはっきり見えました」
「そうか、別室でモニターじゃなかったのか。で、どうだったんだ? 今日のところは」
「まず犯行車両は北川兄所有のフィットなんですが、全く公開しませんでした。代わりに三橋のシビックを詳細に」
「何だよ、代わりってのは」
「要するに被害者をレイプしたあと、フィットは北川のガレージに戻したわけです。で被害者を改めて三橋のシビックに縛りつけて」
「そっちの車だけはしっかり公開したわけだな。しかしだよ、何でそんな面倒臭いことすんだ。三橋がわざわざ北川の車を北川のガレージまで取りにいったのか。そんならはじめから自分のシビックを取りにいきゃいいじゃねえか」
「フィットもシビックも変わんないっすよね。被害者は中肉中背、160ちょっとあります。フィットの後部座席じゃ狭すぎですよ。だからこの間ミズさんとも言ったように、間にワンボックスカーが挟まると辻褄が合うんです」
「だな。フィットは店と待ち合わせ場所との往復用。犯行車両は別にあって、シビックはガレージでの監禁用だな」
「もう一つ変なことがあるんです。北川は免停中です。だから事件の当日、免停中の北川がたまたま北川兄のフィットのキーを持っていたことになるんです。しかも北川はバイクで車を取りに行く三橋に給油を指示してるんです」
「ガソリンがないことまで知ってたのか? ところでその北川の兄貴は事情聴取すら受けてねえんじゃないか?」
「店の保証人も兄貴がなったようですよ」

 ここで犯行当日を時系列的にみてみる。閉店直後、零時過ぎに二人は被害者を捕獲。それから三橋がバイクで北川の車を取りに行く。北川は店に残って残務整理と翌日の開店準備。二人が被害者を連れて店を出るのが5時過ぎ。この時間はどう考えても長すぎる。現に北川は肉の配送業者が早朝に店を訪れることを心配し、大慌てで三橋のガレージを後にしている。なぜ店に明け方まで留まる必要があったのか。この空白の時間、とくに北川は何をしていたのか?
「デスク、北川は食事中の被害者の背後からいきなりスタンガンをぶっ放ったそうです」
「初犯らしからぬ大胆さだな」
「車に運び出す際は、店の制服を着せ、帽子をかぶせて」
「用心深いな。わずかな距離だろ」
「それから北川は大阪市内の99円ショップで焼酎を購入しています。それが6時頃、店の記録に残っています」
「焼酎?」
「被害者に飲ませたんですよ」
「そうか、睡眠薬の効き目を強めるためだな。こりゃ薬のことを熟知してる奴が入れ知恵してるな」
「携帯はGPS機能を心配して、バラバラにして複数の場所に捨てるよう三橋に指示しています。それから高速を降りたあたりで被害者にアイマスクをさせて」
「そこまで来てからアイマスクをさせたのか?」
「被害者によるとガレージには4人くらいの男がいたと。やくざ風の男もいたと」
「それだよ、2人を4人に間違えるなんて考えられん」
「睡眠薬で幻覚を起こすことはあり得ませんか?」
「俺の知ってる限りはないな。それに検察の作文じゃ、被害者はわずかな隙をついて自分で助けを求めたんだろ? 十分に覚醒してるじゃねえか」
 ガレージの現場には多数のコンドームが散乱し、中国製のピルが落ちていたという。被害者を長期にわたって監禁しておく意図がここからも窺われる。ピルは尼崎の漢方薬の店からネットで購入したようだ。だが、中国製というのが俺にはひっかかった。
 スタンガン、SM用のロープ、拘束具などは三橋の携帯を使ってやはりネットでまとめ買いしていた。これも尼崎の店である。これらはすべて北川のフィットから押収されている。なぜ三橋の携帯を使ったのかは不明である。
 もう一つ不明なことがある。店の勤務シフトだ。北川と三橋、あと身重の北川の嫁だけで本当に回るのか。もしそうなら北川と三橋は店に出ずっぱりにならざるを得ない。そして店の閉まっているわずかな時間に、睡眠時間を削ってこんな犯行に及んだことになる。やはり保証人を引き受けたという北川兄の存在が気にかかる。
 一審の判決はやや意外なものだった。三橋は求刑通りだったが、北川には求刑より長い12年が言い渡された。退廷時、北川は弁護士とエレベーターホールのところでなにやら言葉を交わした。三橋は一審を受け入れ、北川だけが控訴した。

 裁判が一段落したので、俺たちは事件に関与した可能性のあるマル暴の絞り込みを始めた。具体的には山岸組のいくつかをマークしていた。しかし、意外な情報がもたらされることになる。その情報はある日、闇金被害者などを支援している弁護士らのグループからもたらされた。事件に関与したのは、関東の広域暴力団、住田会の可能性があるというものだった。水谷さんが言う。
「住田会か、あいつら、女子供でも平気で殴るぞ」
「でも大阪の住田会って、福田総業くらいしかないですよね」
「福田の会長は元やながわ組のあきら連合だろ。山岸にも顔が利くんだよ」
 住田会はもとは住田連合といわれた。ピラミッド型の山岸組はしのぎに関しても掟が具体的に定められている。とくに6代目になってからは組員の覚醒剤使用も禁止されるなどより厳しくなった。一方の住田会は関東でも5つのブロックに分かれ、それぞれが独立色の高い連合体である。
「そう言えば、栃木の住田会組員が最近人身売買事件で逮捕されましたね」
「北ともつながりは深い。しのぎも山岸より苦労してる。それは確かだが」

 俺たちの取材は難航していた。だが、全く進展がないわけでもなかった。北川の兄がかつて放火事件を起こしていたとの噂を聞きつけ、水谷さんがこれを追った。俺は住田会傘下の小森会を調べ始めた。小森会の会長は拉致問題に関わる右翼団体の会長も兼ねていた。その小森会のフロント企業が、梅田と阿倍野に存在することがわかった。とくに阿倍野をマークした。金に困っていた北川や三橋が接触した形跡はないか。そんな矢先のことだった。
「福本、俺たち、負けたみたいだな」
「え?」
「辞令だ。俺と水谷は異動になる。お前んとこにも程なく届くぞ」
「事件から手を引けということですね? 東京の圧力ですか?」
 東京Y社が突出した行動を取りたがる大阪の俺たちを苦々しく思っていたのは知っている。だが、俺たちがここで手を引いたらもう事件を追うマスコミが皆無になる。
「俺も水谷も、妻子があるからな。俺たちは所詮サラリーマンなんだ。異動の日まで、ここで全力を尽くすしかない。福本、お前ももうよくやった。今後のことは、よく頭を冷やしてから結論を出せよ」
 俺のハラは決まっていた。フリーになっても事件を追う、初めからそのつもりだった。

 その夜、俺は久しぶりにフィアンセのゆきとゆったりしたディナーの時を過ごしていた。ゆきの好きなファドを聴きながら、さっぱりしたポルトガルの魚料理を食する。冷えた白ワインが喉に染みる。大事にしたいひととき、こんなひとときがずっと続いたらどんなにいいだろう、ふと思う。一方で、捜索願の出されていた女性達の顔が脳裏に浮かんだ。
 俺の元にももう経済部への異動の辞令が届いている。今日は俺の出した結論をどうしてもゆきに伝えなければならない。それを思うと心が石のように重くなる。
「ゆき、今夜はゆきに、話さなきゃいけないことがあるんだ」
 俺は俯きながらそう言うと、顔を上げてゆきの方を見た。その時、俺は思いがけないものを見た。ゆきはテーブルをじっと見つめるようにして肩を震わせている。ゆきの眼から、大粒の涙がテーブルに落ちた。
「ゆき、どうした?」
「じゅん、ごめん、あたしもう限界だわ」
「何があったんだ?」
 ゆきはしばらく沈黙していた。そしてようやく落ち着きを取り戻すと、自らの体験した恐怖の日々を話し始めた。
「ある日の夕方、部屋の窓から外を覗くと、知らない男の人が道の向こう側に立って私の方をじーっと見ている。その時、なぜかぞーっとしたのよ。それからだわ、夜中に無言電話がかかってくる、頼んでもいない出前が届く、そしてこの間は、火のついた紙を郵便受けに投げ込まれたのよ」
 ゆきは慟哭した。
「なぜ黙ってたんだよ」
「さすがにその時は、管理人さんが心配して、一緒に警察に行ってくれたわ」
 俺には心当たりがあった。俺はここのところずっと、例のマル暴のフロント企業に密着していた。
「じゅん、あたし、じゅん見ててさあ、凄く思ったのよ。この人だったら、もしあたしが被害者の子と同じ目に遭ったら、命懸けで助けにきてくれる。なんだか切なくて言えなかったよ。だって、じゅん、一生懸命なんだもん」
 俺はゆきがたまらなく愛しくなった。その時、思ってもいなかった言葉が俺の口をついて出た。
「ゆき、俺、辞令が出たんだ。経済部に異動だ。俺、受けることにしたよ。これからはこういう二人の時間、もっと持とうよ」
 ゆきはやや意外そうにして黙っている。ぼんやり遠くを見つめているような眼だ。
「なんだ、ゆき、嬉しくないのか?」
「嬉しいわ。でも他の被害者の子はどうなるの?」
 ゆきは切ない眼で俺を見るとそう言った。
「心配すんな。助ける方法はある。俺、今度の土日、東京行ってくるよ。どうしても会わなきゃいけない人がいるんだ。そんな眼で見ないで俺を信じろよ!」

 日曜日の午後、俺は霞ヶ関の喫茶店である女性と会っていた。厚生労働省の西さんだ。西さんは肩書きだけ見ると普通のキャリア官僚、役職は係長だ。30そこそこ、中肉中背の今風の女性である。ただ一つだけ普通の女性と違うところがある。その眼光の異様な鋭さだ。それは修羅場を潜ってきた者だけが持ちうる目力だった。
「大変だねえ。日曜もいつも仕事なんだ」
「休みは土曜、っていうか、休めるなら土曜ね。貧乏暇なしよ」
「西さん、俺はもう真相解明は諦めた。共犯者の逮捕もだ。だけど、他の被害者だけはどうしても助けてあげたい」
「あたしも同じ気持ちよ。じゅんがいち早く知らせてくれたおかげでずっとこの事件ウォッチしてる。おかげで早く動けるよ。来月に入ったらすぐ出張に出るから」
「出張って、どっち方面?」
「じゅん、あたしは公務員であなたは文屋さんでしょ? 公務員には守秘義務があるのよ。特に今度の事件はデリケートだからね」
「わかった。やっぱり拉致問題絡みなのかな。それもNGかな」
「極東にいま波風が立つのはまずいのよ。アメリカにとってもそうだし」
「アメリカ? そう言えばグーグルの検索でこの事件のことが引っかからなくなった時、アメリカが裏で糸引いてるって誰か言ってたな」
「じゅん、ゆきちゃんは元気?」
「うん」
 俺はちょっと後ろめたさを引きずりながら答えた。
「じゅん、しっかり守ってあげなきゃ駄目だぞ。脅すわけじゃないけど相手はただのヤクザじゃない。闇は相当に深いから絶対に軽率なことするなよ。もうここから先は文屋さんの仕事じゃない。国民の命を守るのはあたしたち、公務員の仕事なんだから」
 西さんはもともとはDVの保護司だ。だが、厚労省入省後、いまは海外での仕事が多い。その多くは組織犯罪の手にかかり、売り飛ばされたりした邦人女性の保護である。捜査権が壁になれば警視庁の同志などとも連携する。西さんはほとんど語らないが、現地の情報・支援網のようなものも彼女個人の持ち出しでつくっているらしい。だから会うたび、貧乏暇なしだと言うのである。こういうことは決してニュースにはならないし、今回も西さんが現地を含めてどんなチームを組むのか、俺には知る由もない。ただし、出張期間は1カ月を見積もっていて、すでに上司のゴーサインは出たという。かなりの大仕事だ。
 アメリカにはCIAがある。数年前、中東でトラップにかかり売り飛ばされたアメリカ人女性がいる。女性はベイルートの売春窟に売られた。そこでアメリカ政府は外交ルートを使ってレバノン政府を脅し上げ、一方でCIAが電撃作戦を敢行して女性を救出した。残念ながら日本政府にはこういった芸当はできない。もっともそのアメリカでさえ、サウジあたりまで売り飛ばされてしまえばどうすることもできない。
 いまならまだ間に合う、その西さんの言葉を信じるしかない。

 俺は経済部に異動になった。新しい部署で慣れないことばかりだ。ゆきへの嫌がらせは止まった。俺の周りには忙しいながらも平穏な日々が訪れていた。そんなある日の夜、西さんから一通のメールが届いた。
「裏社会には法則がある。その法則突き崩すため、アジアのいくつかの都市、これから絞り上げに行きます」

 それから2カ月後、俺は西さんと夕食の食卓を囲んだ。
「西さんが病気になるなんて、よっぽどのことだよな」
「じゅん、もう疲れたよ。頻々とした所ばっかりだったよ」
「いつ帰国したの」
「2週間前、後は病院で点滴の日々よ」
「じゃ、予定より2週間延びたんだね」
 俺は多くを聞かなかった。西さんの様子をみれば、任務を首尾よく終えられたことが伝わったからだ。
「西さん、ありがとう」
「これはあたしの仕事。じゅんにお礼言ってもらうことはしてないよ。向こうの頭も全部叩いておいたから、当分は安心していいよ」
「当分ってどのくらい?」
「半年くらいかな。簡単に諦める連中じゃない」
「半年か」
「じゅん、いずれ素人の子に手を伸ばしてくるとあたしは思ってたよ。ヤクザはかなり干上がってるし。いま犯罪の形態が大きく変わりつつあるのよ。例えばこの新宿でもこの前、朝鮮系中国人の暴走族グループが住田会の組長を射殺したわよね。あるいは仙台では山岸組と住田会が抗争始めた。でもドンパチやってるのは下の方だけで上はみんな繋がってると考えていい。下には敢えてガス抜きやらせた方がいいカムフラージュになるのよ。とくに中国マフィアは日本のヤクザと結構うまくやり始めた」
「確かに勝ち組は新興市場とかにしっかり進出してるけど、負け組のしのぎは必死らしいね。そういう連携もありか。そう言えば事件のあったガレージに中国製のピルが散乱してたんだよね」
「これは一般論だと思って聞いてね。アジアの闇、その根源を辿っていくと中国に行き着くことが多い。やはり中国は人口も多いし、犯罪のスケールも大きくなる。とくに一人っ子政策が大きく中国の農村社会を変え、その副作用に多くの人達が今も苦しんでいる」
「中国には黒戸籍が2億人いるって聞いたけど、それも一人っ子政策の副作用だよね?」
 黒戸籍とは戸籍を持たない人のことだ。ほとんどが貧しい農村部の戸籍を買えない家庭の若者たち。彼らこそ人身売買の格好のターゲットになる。
「中国の農村は男尊女卑社会でしょ? そこで子供の数が制限されたらどうなる? 女の子はますます歓迎されない存在になる」
「一人っ子政策が男尊女卑社会を助長したってこと?」
「歓迎されない女の子は遅かれ早かれ売られる運命にある。やがて一人っ子政策で大事にされた男の子達が適齢期になる頃には周りに女の子がいない。都市部から嫁いでくる子なんかいないからお金で嫁さんを買う。実態は性奴隷だけど。そうして90年代あたりに中国農村部で人身売買ビジネス・誘拐ビジネスが急拡大したのよ。犯罪組織は地方政府や公安と賄賂でつながり、近所の人は知っていても誰も助けない。暴力とレイプの日々。親戚のおじさん達までやってきて代わる代わるレイプされ、何年かすれば彼女たちはもう人間としての目の輝きを失ってしまう。仮に実家まで逃げ帰れたとしても、もう親はレイプされた娘を娘とは認めたがらない」
「俺聞いたことあるけど、日本人の女の子が中国人の子の5倍くらいの値で売買されてるとか」
「じゅん、あとで外務省に行ってみるといいよ。邦人がどれだけ海外で行方知れずになってるか。北米でも年間数十人だけど、アジアはいつも3けた、90年代はもっとずっと多かった」
「じゃあその頃から西さんは中国で日本の女の子保護してたの?」
「アハハ、バカね。あたしはまだその頃は中学生だよ」
「西さんも制服とか着てたの? 似合わねえなあ。目つきの異様に鋭い中学生だったんだろうね」
「何言ってんの。可愛い中学生だったわよ。ところでじゅん、陰婚*知ってる?」
「陰婚? そんな俗習があることは知ってるけど、いまでもあるの?」
 耳を塞ぎたくなるような西さんの話が続いた。中国の女性は生きて売られ、死んでもなお売られる。それも臓器売買だけじゃないのか!?
「西さん、俺たちには現実は変えられない。俺たちにできるのはむごい現実を知ることだけだ。それを周りの人に伝えることだけだ。みんなが知れば目線が変わる。それがいつかは当局を動かす力になる。俺たちはそれを信じるしかないよ」
「いかにも文屋さんらしい考えね」
 西さんは苦笑するように言った。
「じゅん、立場は違えど、じゅんもあたしも弱者を思う思いは一緒。あなたはあなたの信じる道を行きなさい。あたしにできることは対症療法。今苦しんでいる子を保護し、ケアをして、安全な場所に連れて帰るだけ。でもこの日本が、決して安全な場所でなくなりつつある。このことは若い子達にちゃんとレクチャーしていかないと。そしてじゅん、あなたたち男性が大事な人をしっかり守ってあげなきゃね。そうそう、じゅん、あたし来週からアメリカ行くんだよ」
「え、もう行くの? 何しに?」
「前にじゅんにも言ったじゃない。障害者支援事業をビジネスとして立ち上げるために株式会社化する話。そのモデルケース見に行くのよ」
「もう次のプロジェクトが立ち上がってるんだね」

 俺たちは夜も更けた新宿の街に出た。大学生風の女の子が携帯のメールに夢中になりながら、向かいから来る通行人にぶつかりそうになっている。人波の向こうに西さんの背中が小さくなっていく。俺はその西さんの背中に向かって大声で呼びかけた。
「西さん!」
 彼女が振り返る。人波に遮られながらも、俺は右手の親指を高く突き上げるようにして叫んだ。
「グッド・ジョブ!」


*注 中国農村女性残酷物語 産経新聞元中国総局 現政治部記者・福島香織
 2年前、北京郊外の平谷区の民族村と呼ばれる村落を訪れた。桃の花の名所だが、実は農産物のほとんど実らぬ寒村で、嫁の来手(きて)がない。だからベトナム国境あたりの少数民族の村から嫁を買う。北京なのにミャオ族やナシ族の女たちが暮らすので民族村。
 そこで出会ったミャオ族の王美芬さん(当時37歳)は19のとき、8つ年上の実兄に5000元(約8万円)で売られてきた。「好きな人がいたのに、北京で働き口があるとだまされて連れてこられた」。村に着いてだまされたと知り泣いて抵抗すると、兄は棍棒(こんぼう)で折檻(せっかん)した。兄は受け取った金で故郷に家を構え、意中の女性と結婚した。
「10歳年上の夫とは方言の違いで、当初は言葉も通じなかった。結婚2年後、子供が生まれてもう逃げられないとあきらめた」。昔の恋人は、王さんを待ってまだ独身という。語る王さんの涙は止まらず、ぽたぽたとズボンの上にぬれたシミをつくり続けた。
■今も続く女性売買
 中国の女に生まれるということはなんとむごいことかと、そのときつくづくと思ったが、やがてこんなのは序の口と知る。
 昨年(06年)暮れの事件だ。陝西省延安県の村で結婚仲介者が知的障害の女性(20)を家族から2000元(約3万2000円)で買った。仲介者は別の村の男性に若く健康な嫁として売ったのだが、後で障害がばれて返された。もてあました仲介者は女性を殺害、遺体を「陰婚」仲介組織に転売した。
 陰婚とは、未婚男性が亡くなったとき、あの世の伴侶(はんりょ)として墓に未婚女性の遺体を一緒に埋葬する農村の俗習だ。陰婚用の遺体は遺族が売ることも、病院の遺体安置室や墓から横流しされたり、盗まれたりすることもあるらしいが、陝西省や山西省などで炭坑事故による若い男性の死が急増し陰婚用遺体が値上がりしているため、最近では若い女性を狙った連続殺人事件も起きている。
 この事件も「陰婚」仲介地下組織の摘発によって明らかになった。地方紙にひっそり載った記事によれば、事件解決後も家族は彼女の遺体を引き取ろうとしなかった。中国の女は生きて売られ、死んでもなお売られ続ける。  

追記 2009年5月8日、中国公安部は女性・児童の誘拐と人身売買に関する取り締まりキャンペーンの結果を発表した。中国網が伝えた。
 4月9日から5月4日までに児童の人身売買184件、女性の人身売買122件、人身売買犯罪グループ72組を摘発、児童196人、女性214人を救出したという。わずか1カ月足らずのキャンペーンで400人もの被害者が救出されたことになり、誘拐と人身売買が広範に行われていることを裏付ける結果となった。
 また公安部によると、誘拐と人身売買犯罪は次のような傾向を見せているという。
(1)グループ化、ネットワーク化、犯罪発生地域広域化の進展、構成員、犯罪手段の多様化
(2)子どもを狙うケース、特に出稼ぎ農民ら他地域出身者の子どもを狙う例の増加
(3)誘拐された児童や女性への物乞い、売春、窃盗、強盗などの犯罪行為の強要例の増加
(4)国際的事件の増加──などが挙げられる。(翻訳・編集/KT)

 2009年6月4日、誘拐事件の多発が社会問題化している中国で3人の児童誘拐事件に関与したとして、中国当局が誘拐容疑で逮捕状を取って行方を追っていた中国人の男(39)が他人名義の旅券で日本国内に入国し、東京都内に潜伏していたことが3日、捜査関係者への取材でわかった。警視庁組織犯罪対策2課は他人名義のパスポートで不法入国したなどとして、男について入管難民法違反容疑で逮捕状を取っており、4日に男を逮捕する。中国当局は事件の全容解明には誘拐団メンバーの男の身柄引き受けが不可欠として、日本側に男の強制退去を要請していた。男は日本での司法手続き終了後、中国に移送される見通し。
 日中間では犯罪人引き渡し条約が締結されておらず、警察当局によると、中国からの要請を受けて容疑者を移送するのは極めて異例という。
 捜査関係者によると、男は誘拐団のメンバーで、誘拐した児童の斡旋(あっせん)先を確保する役割を担っていたとみられる。この誘拐団は平成17年から19年にかけて、山西省や山東省など中国国内3カ所で、児童3人を人身売買目的で誘拐した疑いが持たれている。
 中国当局はこれまでに誘拐容疑でメンバー数人を逮捕。捜査の過程でこの男も捜査線上に浮上したが、男は逃走した。その後の捜査の結果、男が知人男性になりすましてパスポートを取得し、19年6月ごろに「研修」名目で成田空港から日本に入国していたことが判明した。
 誘拐された児童3人のうち2人は見つかっているが、1人は行方がわからないという。中国当局は、行方不明の児童を保護するなど全容解明を進めるためには男を逮捕して供述を引き出すことが不可欠と判断し、誘拐容疑で逮捕状を取った。今年4月には男の身柄を引き受けるため、日本側に国際刑事警察機構(ICPO)を通じて男の情報を伝えるとともに、男の身柄を確保して日本国外に強制退去させるよう要請した。
 要請を受け、警視庁組対2課が捜査を開始。男が東京都大田区内のアパートで寝泊まりし、自宅近くの食品製造会社の工場で従業員として働いていることを把握。男が19年6月ごろに他人名義のパスポートで日本に入国し、不法に滞在を続けているとして、入管難民法違反(不法入国、不法在留)の容疑で逮捕状を取った。(ソース・産経新聞6月4日)

 男の日本潜入の目的は不明である。
 中国当局はようやく自国に広がる人身売買・誘拐ビジネスの深く果てしない闇を認め、その摘発に向けて重い腰を上げつつあるように思える。俺たちは少なくともそう信じたい。







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